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●太平の世で文化や経済の花を咲かせる江戸創業時の商人達

江戸創業時の商人達

平和というのは何かというと、「戦争でない状態」が平和であるということだ。
それは具体的に武器を持って争わないだけで、常に競争が行われているのは、人類始まって依頼の業のようなものである。

だからこそ、平和が為政者によって出現した後には、その平和の中に多くの可能性を見いだす人々が出てきてもおかしくはない。
もちろん平和を創出するには、為政者の思想や理想、政治目的、方向性が真理に根ざしているかどうかということが大きな力を持っていることはいうまでもない。
いつの時代でもそうだが平和の主体は民衆が握っているということだ。
そこで、どんな人々が江戸という時代にその成業をはたしていったのかを考えてみよう!

◆◆◆江戸創業時の商人達は・・・・!◆◆◆

■淀屋をみると、太平を創業するときにはどんな商人が必要かが分かる

(wikipedia から)
淀屋(よどや)とは、江戸時代の大坂で繁栄を極めた豪商である。
全国の米相場の基準となる米市を設立し、大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へ発展する事に大きく寄与した。

米市以外にも様々な事業を手掛け莫大な財産を築くが、その財力が武家社会にも影響する事となった事により、幕府より闕所(財産没収)処分にされた。
しかし、闕所処分に先立ち伯耆国久米郡倉吉の地に暖簾分けした店を開き、後の世代に再び元の大坂の地で再興した。
幕末になり討幕運動に身を投じ、殆どの財産を自ら朝廷に献上して幕を閉じた。

淀屋を創業した岡本家によるものを前期淀屋、闕所後に牧田家により再興されたものを後期淀屋と呼ぶ。
淀屋が開拓した中之島には、かつて常安町と常安裏町(現在の中之島四丁目~六丁目)が有った。
また現代も中之島に掛かる淀屋橋や常安橋にその名を残している。

淀屋の事業は米市を主とした多角的経営であった。

初代の岡本三郎右衛門(おかもとさぶろうえもん)は、伏見城の造営や淀川の堤防改修において工事の采配を振り、高い土木工事技術を発揮した。
その後、大坂の十三人町(後の大川町、現在の大阪市中央区北浜四丁目)に移り、淀屋と称し材木商を営んだ。
1609年から1614年に掛けて中之島の開拓を行い、江戸時代から現代まで続く経済の拠点を造った。

二代目の淀屋言當(よどやげんとう)は、途絶えていた青物市を元和元年(1616年)に京橋一丁目の淀屋屋敷で再開した。
寛永元年(1624年)には「海部堀川」(かいふほりがわ)を開削し、海部堀川の屈折点に造った船着場「永代浜」(現在の靱本町二丁目)に魚の干物を扱う雑喉場(ざこば)市を設立した。

また米価の安定のため米市を設立し、大坂三大市場と呼ばれた青物市、雑喉場市、米市を一手に握った。
また輸入生糸を扱うための糸割符に、大坂商人も加入できるように長崎奉行と掛け合った。
寛永9年(1632年)に、糸割符の加入が認められ海外貿易を始める。
寛永15年(1638年)からは加賀藩主前田利常の意向により加賀米の取扱いが本格化した。
その大坂への輸送に際して、日本海から関門海峡と瀬戸内海を経由して大坂に至る西廻り航路を北風家の北風彦太郎と共に担い、北前船の先鞭と成った。

●淀屋常安(よどやじょうあん、つねやす)1560年 - 1622年 岡本与三郎

山城国岡本荘の武家の出身だったが、織田信長に討たれ商人を目指すようになった。
苗字を出身地の岡本、通称を三郎右衛門、名を与三郎、のちに善右衛門とした。
隠居し仏門に入ってからは常安の号を名乗った。
なお前期淀屋の歴代当主も三郎右衛門を名乗った。

常安請地として中之島の開拓を手掛け、大阪大学医学部跡地の旧町名である常安町、常安橋に名を残している。
大坂三郷(北組・南組・天満組)のうち北組の惣年寄を担った。

大坂の役においては徳川方を支持した。
大坂冬の陣では茶臼山と岡山の陣屋を徳川家康と徳川秀忠に提供し、徳川方の兵には食料も提供した。
その功績が家康に認められ、褒美として山城国八幡の山林田地300石の土地を与えられ、名字帯刀が許された。
大坂夏の陣が終わった後には戦の後始末を願い出、亡くなった兵の供養と大量の武具を処分した事でも利益を得た。

●二代 淀屋言當
淀屋言當(よどやげんとう、ことまさ)岡本言當1576年 - 1643年

弟、五郎右衛門の子(三代箇斎)を養子とする。
通称を三郎右衛門、名を言當、号を个庵(こあん)とした。
なお二代、四代、五代の歴代当主も个庵(こあん)を名乗ったので、二代を区別し特に玄个庵と呼ぶ。
十三人町の町年寄を務めた。

◆淀屋の運命式の流れからみる草創期の商人

一代から五代までで、徳川初代政権から元禄時代までになっている。
この間に淀屋は江戸時代の経済体制の基礎を創りあげている。
そこで、この淀屋のような商人はどんな運命式の内容なのかを共通要素から見てみよう!

★(1代)岡本与三郎の運命式
タイプ23-28:リーダー的自分を中心として、策戦思考するタイプ

25 13 19
20 28 11
23 15 20

★(2代)岡本言當の運命式
タイプ28-33:リーダー的自分を中心として、戦略的に思考して活動するタイプ

26 13 20
21 33 12
28 20 25

★(3代)岡本箇斎の運命式
タイプ33-38:リーダー的自分を中心として、策戦思考するタイプ

24 13 27
19 38 19
33 25 30

★(4代)岡本重當の運命式
タイプ30-35:リーダー的自分を中心として、策戦思考するタイプ

26 13 22
21 35 14
30 22 27
★(5代)岡本廣當の運命式
タイプ36-41:パートナー型で目的指向を中心として、情報を集めて細かく知的に気配りするタイプ

26 13 28
21 41 20
36 28 33

1代から5代までの流れを見てみると、江戸草創期から経済体制ができあがるまでの特徴が分かる。
それは、この淀屋の特徴は「政商」であるということなのだ。
運命式全体に流れる特徴が「政商」であることを物語っている。
それぞれのタイプを見ればわかる。強烈な自己顕示欲と主体性、自己中心性、それに戦略性、策戦性、思慮深さ、が基本となっていて、そこに様々な運勢が絡み合っている。

このことは、権力と結びついて、その力によって様々な術策を用いることで商業を成り立たせるというのが、この運命式から見えてくる淀屋の基本的な内容だ。
そして仕事数の変遷が実に見事だ。

それは、初代は智恵→二代目はアイデア→三代目は実績→四代目は苦難→五代目は思索 というように流れてくる。

この流れは繁栄に繁栄を重ねてきているような淀屋の本当の運勢の流れを表している。
人々が見る繁栄の影で、本当の姿が隠されていただけなのだ。
それは権力を相手に仕事をするものたちの危うさがいつもあるということだ。

★淀屋はまさに権力を利用しながら、その権力に対抗するだけの運命式の強さを持ち合わせているときは発展してきたが、その運命式に弱点が現れ始めたときにそれをカバーするだけの準備を怠ってしまった結果が、「滅び」という結果が出てしまったということになる。
確かに淀屋は時代の要請に答える形で出現してきたが、その時代を形成したときに「政商」のままで次なる転換を図れなかったところで終わってしまったということになる。


名前の分析と解説

ビジネス世界の
分析と解説
ビジネスの世界では、単に儲ければよいというよりは、そこに社会的な使命があったり、自分のミッションと考えている人もいるし、また企業理念に忠実であろうとする人もいます。

でも、そこには成功と失敗が常に隣り合わせであることは事実です。

その中で、どんな戦い方をしてきているのか?ビジネス戦士の生き様を捉えます。

スポーツ選手の
分析と解説
スポーツ勝負事はいつでも勝者と敗者の明暗が分かれます。
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芸能人の
分析と解説
芸能人芸能人といえば、人気が全てであります。
ある意味人生も人気です。
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何故あのようなことをしたのかなど、人の創造と堕落をこれほどはっきりと見せてくれるのは、芸能界という偶像が支配するところだからであると思います。

歴史上の人物の
分析 と解説
歴史上の人物歴史的な人物は、その事跡がはっきりとしていたり、様々なことが研究されていますから、危機や事件、重大な判断をしなければならないことなど、人生の様々な教区を終えるということであれば、これほどすぐれた教科書はないと思います。

そういう意味で、歴史上の人物を研究することは、自分の人生にとって価値あることになるはずです。

影響力ある人の
分析と解説
ボランティアや社会貢献ボランティアや青年海外協力隊などNGO、NPOなど様々な公的な準公的な機関で働きたいと願っている人が多くいます。

そういう人々の公共の奉仕の精神は、災害時などで多くのボランティアの方の参加を見ていると感動することが数多くあります。

そんな中でやはり何かを成し遂げる人やリーダーシップを発揮できる人がいます。
そのような人々もやはり人生のお手本になる人だと思います。