−私の生い立ち−
● 死んだらどうなるのかしら? の疑問の問いかけを求めて!
それでお話を小さい頃に戻したいと思います。
私は1953年に石川県七尾市に生まれました。
家族は祖父、祖母、父、母、兄、私の6人家族でした。
私が5〜6歳の時、家の前のほんの100メートル位しか離れていない所に住んでいるおじさんが、ある日突然交通事故で亡くなったのです。
42歳の厄年でした。 |
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当時流行していた自転車バイクに乗っていて通勤の帰り、車と衝突して即死だったのです。
今でも、その当時のことは、はっきり覚えているのです。
私はそのおじさんは、いつも毒舌をはいたり、あまり可愛がってくれたわけではないので、あまり好きではなかったのですが、人生で初めてのお葬式というものを体験して驚いたのです。
親戚の人が沢山集まり、我が家にも集まって賑やかだったのと、お葬式のごちそうが何故か美味しくて、嬉しかったのを覚えています。そして人が沢山集まって嬉しかったのです。でもお葬式が終わって人がいなくなったら、急に寂しくなってしょうがなかったのです。
今から思うと本当に子どもだったのだな〜と申し訳ない気がしてきますが・・・。
ところで、その時人間って死ぬんだな〜と改めて思ったのです。
朝、おはようと言っていた人が夕方にはいなくなる。
その事実を突きつけられた時、私は受け止めきれないような衝撃を受けたのです。
お葬式を終えて、お骨になる。
じゃ!あのおじさんは何処に行ったの?
という素朴な疑問が沸いてきたのです。
私はそのときから、死んだらどうなるのかしら?といつも思っていました。
自分の存在がこの地球上からなくなってしまうと思うと怖くてたまらなかったのです。
”自分の存在が有から無になる。”嫌だ! そんなことは考えたくない。
と思いながらでも、また考えるという感じでした。
非常に哲学的だったのです。
もし総てが無になってしまうのだったら、今死んでも、80歳になって死んでも
同じじゃないの?!?!。
もし、総てが無の結末ならば、泥棒してもいいじゃない?
世の中で散々悪いことをしまくってもいいじゃない?
総ての結末が無であるならば・・・。
人が生きるプロセスは何なのか?
人は良いことをしよう!とする心がある。為に生きよう!
ボランチィアをしよう!とするのは何故?
何か見えない世界? あの世の世界があるのかもしれない。
死んでも生きる世界があるのではないかしら?
その方が理屈に合う。
と思うと人生の生きるプロセスの意義があるように思えてくる。
そこでやっと、私の心は落ち着いて来たのです。
私にとって少なくとも、この身近で起きた内容が大きく人生を考えされられた最初の出来事でした。
ですから、私はこのときから、刹那的は考え方は出来なくなってしまったのです。小学1〜2年生くらいの時からでした。
さらに輪をかけて、小さい頃から、非常に哲学的な世界、宗教的世界に
関心合ったのかは家庭環境に一因があるように思います。 ●
小さい頃の私の環境
当時、私の祖父は非常に熱心な浄土真宗の信者だったのです。
物事の道理をわきまえたしっかりしたおじいちゃんで、私は大好きでした。
そのおじいちゃんが、お坊さんとかなりの交流があり、私が物心が付く前から、お寺のお坊さんが出入りしていました。
年に2〜3回はお坊さんの講座が我が家で執り行われていました。
全国を仏教の教えを講演して回る専門のお坊さんがよく、来られました。
それで、周りの町々から沢山の人が詰めかけていました。
私も一緒になって、よくお坊さんのお話を子どもながらに聞いていた記憶があります。
よ〜く嫁姑のお話を繰り返して言っていた記憶があります。
私にはとても味深い話でした。でも、何故かそんな教訓的ないいお話なのに、帰り道では嫁の悪口を言うそんな人がいてがっかりしたことがあります。
今で言う、綾小路きみまろさんまではいかないにしても、結構、講演慣れしていて笑いあり涙ありで人の心のツボを捕まえるのがうまいお坊さんも沢山いました。
ですからリピーターが多かったようです。毎年やっていました。
祖父が健在中はずーっと私が中学生位までやっていました。
そういう環境でしたので、知らず知らずのうちに物事を深く見つめようとする傾向にあったとのだと思います。そして哲学的、宗教的なものには抵抗感はなかったのです。
● 家の中の悩み!
そして、小さい頃より家の中では、嫁姑問題が渦巻いていたのです。
母は昔からどちらかというと体が弱く百姓には向かない体質だったようです。
でも母がいないとき、おばあちゃんや近くにいる小姑が家によ〜くやって来て母の悪口を言うのです。
「お前のかあちゃんは体が弱いし、ホント役にたたんわ。困ったもんや。」と私がいてもはっきり言うのです。
それは子ども心にとても、辛く感じたのを今でも覚えています。母は体が多少弱くっても、一生懸命頑張っているのに、何であんなこと言われなきゃいけないのよ〜。と私は母のことを代弁したかったのです。
でもそうすると母にの方に肩を持っていると言うことで敵視されるから、まずいことになる。だから立場的に中立になっていた方がいいと思ったのです。それであまり反応をしないように接していたのです。
また、母にそのことを告げるとさらに苦しんだり悩ますことになる。だから、色々聞いていても報告しないことにしたのです。
その方が喧嘩にならない。もし私が報告することによって、双方が喧嘩をしたら大変です。それは充分あり得ることです。
私が本音を言うと、たちまち家の中がバラバラになってしまうと思ったので、心の内を言えなかったのです。
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大人の複雑に絡んだ世界をかいま見ながら、どうしたら家族として本当にうまくいくのだろうかと真剣に悩んでいたのです。
ですから私の小学校の頃の悩みは、嫁姑の問題や結婚しているのに浮気をして家庭がだめになったとか、
そういう問題がどうしたら解決できるのだろうかという結構今にしてみればかなり、おませな悩みだったのです。
そのころから自分って年は若いのに心は若年寄みたいと思っていました。 |
● 八方美人はいや! 自分が八方美人というコンプレックス!
知らないうちに私は、大人の顔色を見ながら対応する子どもになっていたのです。
そして心をそのままストレートに表せない癖がついたのです。それは家の中を丸く収めようとするには必要なことだったのです。そういう習慣が付くようになって、知らず知らずのうちに、八方美人になっていたのです。
そのことがとてもいやでした。先に周りのことを考えてしまって自分の意見が言えないのです。だから人から何といわれようと、思われようと自分の考えを堂々と言える人が素晴らしく見えたのです。とても羨ましかったのです。
私もあんな人になりたい!と憧れたものです。
ある時、中学生の友達に「あんたは八方美人や!」と言われたときには、本当にその言葉がズサッと心の中に刺さったのです。
何か心の中を見抜かれているようで、心が裸にされたみたいで恥ずかしかったのです。八方美人はいや!とどんなに叫んだことでしょう!
でも自分が変われないのです。こんな自分が変わりたい。もっと堂々とした意見を言える自分になりたいともがく私だったのです。
ですから、私にとって優柔不断と八方美人という言葉は敵のように思えたのです。でもなかなか脱皮できない自分なのでした。
自分の性格が大嫌いだったのです。とてもいやでした。もっと人の目を気にしない自分になりたいとどれほど思ったことでしょう!
内面的世界で悩み多き日々を送った記憶がよみがえってきます。
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