仏門に入る空海
797年、空海は久しぶりに郷里に帰りましたが、両親は仏門に入ることを許しません。そこで空海は、24歳のとき、日本最初の小説?かな!「三教指帰」を書きました。ここには儒教・道教・仏教の三つの教えがそれぞれの立場から書かれ、空海はこの書によって、自分が仏教にひかれた理由を明らかにしたのです。両親はこれを読んで、やっと仏門に入ることを許したといわれています。
空海は諸国の寺を巡り、さまざまな経典を読みつづけ、大和国の久米寺で「大日経」を発見します。空海22歳から25歳頃のことです。空海はこの教典に魅せられたのですが、
当時この教典を解説できる者は、日本にはいなかった為、唐に渡る決意をするのです。
804年、肥前国田浦から四隻の遣唐使船が出航しました。空海たちは、長期留学(最低でも二十年)の留学僧であったのです。同じ時に遣唐使船に乗った最澄は、国費留学の短期で帰る還学僧で会ったのです。
中国に着いた空海は、まず梵語を学び、そのほかたくさんの文化や宗教も学びました。
儒教、道教、景教、拝火教、などです。そのほか土木技術や、最新の文化技術を学んだのです。
空海は早速西明寺を訪ね、ここで、留学僧として三十年間も長安で学ぶ永忠に出会い、大日経について学ぶならば、青龍寺の恵果和尚であると知ります。
805年、空海は青龍寺の恵果和尚の門を叩きます。恵果和尚も空海の訪問をたいそう喜び、他の弟子の驚きを制止して、密教のすべての知識を伝える作業を始めたのです。そして、密教の法を伝える灌頂を受けることになったのです。伝授は3ヶ月かかり、恵果和尚より「遍照金剛」の名前を授かりました。その間、普通10年かかることをすべて学んでしまったのです。恵果和尚は空海に対し、日本に早く帰って密教を広めることを願い、これを遺言としてなくなりました。密教の正統は中国を離れ、空海によって日本に伝えられたのです。
空海は20年間の留学の予定を切り上げ、すぐに帰国しました。
この問題は、死罪にも当たる重大な罪になったのですが、一足先に日本に帰っていた最澄が、彼を助けたのです。それは、最澄が還学僧であったため、密教は十分学ぶことが出来なかったのです。それで、空海の密教を学びたいと思い天皇に進言したのです。 |